iosif_or_something

about something about me or something about something

Storytime 3

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I don't belong here. という感覚をずいぶん長いこと抱えてきた気がする。一体いつ頃からだろうと考えてみるとあれは多分7,8歳ぐらいの頃で、私は父親から酷い扱いを受けていた。妹は私から見ると寵愛されてるように見えた。(今思い出すのは自分だけが薄暗い寝室にして居間から残りの家族が夕食を食べている様子が伝わってくる。父親は幼い妹を胡坐の上に座らせるのが好きなように見えた。)多分それぐらいからの長い付き合いだと思う。それ以降もいろんな形でいろんな場所でそれは襲ってきた。ちょっとした出来事が鋭い針となって古傷をつついていたというようなことかもしれない。慣れてしまえば大丈夫という人もいるが私はいまだになれない。まあでも墓石に"I don't belong here. "と刻んでもらうのはなかなかいいアイディアかもしれない。

正しい欲望

希求と苦痛の関係について少し考えていた。考えるといっても数式を一行ずつ解決していくというようなやり方ではなく、ただ意識の目立つとこに置いておいてなにかがひっかかるのを待つというか気が付いた時になにかひっかかってないか(注意散漫な釣り人みたいに)確認するという感じなのだけど。

忘れないうちに何か書いておこうと思った。希求と苦痛の強度は比例する(ようにみえる)。仏教の渇望(タンハー、渇き)という概念がヒントになりそうだけどよく分からない。そもそも悟りなど縁のない凡夫はどう生きればいいのか。どう苦痛と折り合っていけばいいのか。この苦痛が長続きしないのは良く知っている。諸行無常。というのは今、希求が具体的な形をもって目の前にリアルな欲望として現れている。その形がいずれ姿を消すあるいは変えるだろうということでなぜなら諸行無常だから。希求はつねに出口をもとめていて具体的な形として現前しない限り少なくとも私のような凡夫には認識されない。形を与えられた時にそれは全くのオリジナルな希求ではなくなっている。それはつまり形のないものに無理やり形を与えるようなものだから。(まったく上手く書けない。これを読んでる人がいたらまるで理解できないと思う。数日後の私にも理解できないかもしれない。)(例えばこういう風に言うことが出来る。まず「欲する」という対象を持たない働き*1がある。それが「何かを欲する」という対象を持つ具体的な欲望として表れる。飢えがあるときにグルメ番組でトンカツを観たとすると、次の瞬間にそれは"トンカツを食べたい"という具体的な欲望に形を変える。)

というあたりでそれが間違った形で現れることもあるのではないかという考えにあたった。それがつまり例えば"月の岩を食べたい"という形で現れたらどうしたらよいのだ。これが正しい欲望なのだろうか。

正しいと一概に言ってもいろいろな意味があるわけで、例えば人を殺したいというのは法律的に「正しくない」。倫理的にもそうだけどもしかしたら「正しい」こともあるかもしれない。他にも政治的な正しさとかドレスコード的な正しさとか礼儀的な正しさとか(言葉遣いとか)あるのだろうけど私が問題にする正しさはそれらのものではない。

 じゃあなにさというあたりで言葉につまるのだけどなんとなく分かるでしょう。正しくない欲望には救いがない。なぜなら正しくないから。あるいは救いがないから正しくない。月の岩をどうやって食べたらいいのか。救いのなさが強いほど苦痛も強くなる。そんな正しくない欲望のせいで救いのない強い苦痛を抱えて生きていかなきゃいけない月の岩にあこがれる人間というのは一体なんなのか。ただ愚かで惨めなだけだ。仮にその正しくない在りように気づいたとしてその人間に一体何が出来るのか。諸行無常。形が変わって消えていくのを静かに待つしかない。変化に100年もかからないことを期待して。というあたりで月の岩にあこがれる男という小話を書くのはいいアイデアに思えるけどまるでうまく書ける気がしないというわけで今週のはてなブログのお題は「月の岩にあこがれる男」です。締め切りは2115年6月21日です。どしどしふるってご応募ください。

*1:タンハー、渇き

Why I was not

これは良いアイデアだなと思ったことですら良くない結果に終わることがあるというのにすでに頭に浮かんだ時点で悪いアイディアだと認識してるのにそれを行動に移して余計に悪い状態を作り出すという泥沼なスパイラルになってて辛い。荒ぶりショパンシューティングすらする気力もない。こんなに魂が動揺してささくれだってるときは寝るぐらいしか出来ない。そして寝たところで何も解決しないのも知ってるのも辛い。(このブログのことじゃないですよ。念のため。別に良いアイデアでも悪いアイデアでもかまわないと思うし。もちろん良いアイデアで良いものが書ければそれ に越したことはないだろうけど。そんなことが出来るのはほんの一握りの知性や才覚となんらかの特別な天分を備えた人だけでしょう。ただ何か思いついたことやパッションを吐き出すとこが必要だなという認識は最近ある。書き出すことで自分が何を考えて感じ ているかというのをより正確に知ることが出来る。というのは書くためにはある程度"自分"の内にあるものを注意深く観察しなければいけないし、観察や思考 を言葉にするときにはそれなりの思考や工夫や発見が必要になる。その作業自体がまた私にとっては今のとこはという条件付で楽しいものになっているし、正直 自分の書いたものを読み返す作業というのもそんな悪いものじゃない。もちろんそんなに良いものでもないけど。)