iosif_or_something

about something about me or something about something

正しい欲望

希求と苦痛の関係について少し考えていた。考えるといっても数式を一行ずつ解決していくというようなやり方ではなく、ただ意識の目立つとこに置いておいてなにかがひっかかるのを待つというか気が付いた時になにかひっかかってないか(注意散漫な釣り人みたいに)確認するという感じなのだけど。

忘れないうちに何か書いておこうと思った。希求と苦痛の強度は比例する(ようにみえる)。仏教の渇望(タンハー、渇き)という概念がヒントになりそうだけどよく分からない。そもそも悟りなど縁のない凡夫はどう生きればいいのか。どう苦痛と折り合っていけばいいのか。この苦痛が長続きしないのは良く知っている。諸行無常。というのは今、希求が具体的な形をもって目の前にリアルな欲望として現れている。その形がいずれ姿を消すあるいは変えるだろうということでなぜなら諸行無常だから。希求はつねに出口をもとめていて具体的な形として現前しない限り少なくとも私のような凡夫には認識されない。形を与えられた時にそれは全くのオリジナルな希求ではなくなっている。それはつまり形のないものに無理やり形を与えるようなものだから。(まったく上手く書けない。これを読んでる人がいたらまるで理解できないと思う。数日後の私にも理解できないかもしれない。)(例えばこういう風に言うことが出来る。まず「欲する」という対象を持たない働き*1がある。それが「何かを欲する」という対象を持つ具体的な欲望として表れる。飢えがあるときにグルメ番組でトンカツを観たとすると、次の瞬間にそれは"トンカツを食べたい"という具体的な欲望に形を変える。)

というあたりでそれが間違った形で現れることもあるのではないかという考えにあたった。それがつまり例えば"月の岩を食べたい"という形で現れたらどうしたらよいのだ。これが正しい欲望なのだろうか。

正しいと一概に言ってもいろいろな意味があるわけで、例えば人を殺したいというのは法律的に「正しくない」。倫理的にもそうだけどもしかしたら「正しい」こともあるかもしれない。他にも政治的な正しさとかドレスコード的な正しさとか礼儀的な正しさとか(言葉遣いとか)あるのだろうけど私が問題にする正しさはそれらのものではない。

 じゃあなにさというあたりで言葉につまるのだけどなんとなく分かるでしょう。正しくない欲望には救いがない。なぜなら正しくないから。あるいは救いがないから正しくない。月の岩をどうやって食べたらいいのか。救いのなさが強いほど苦痛も強くなる。そんな正しくない欲望のせいで救いのない強い苦痛を抱えて生きていかなきゃいけない月の岩にあこがれる人間というのは一体なんなのか。ただ愚かで惨めなだけだ。仮にその正しくない在りように気づいたとしてその人間に一体何が出来るのか。諸行無常。形が変わって消えていくのを静かに待つしかない。変化に100年もかからないことを期待して。というあたりで月の岩にあこがれる男という小話を書くのはいいアイデアに思えるけどまるでうまく書ける気がしないというわけで今週のはてなブログのお題は「月の岩にあこがれる男」です。締め切りは2115年6月21日です。どしどしふるってご応募ください。

*1:タンハー、渇き